結論から。『吾輩は猫である』の猫のモデルは、1904年初夏ごろ千駄木の夏目家に住み着いた野良の黒猫で、名前は付けられなかったとされています。
漱石はこの猫が来た年の暮れに第一話を書き、1905年1月に雑誌『ホトトギス』で発表しました。
猫は1908年9月13日に死に、漱石は親しい人に死亡通知を出し、書斎の裏に墓を立てています。
この記事では、実在の猫と作中の「吾輩」の違い、作品が連載になった経緯、猫の最期とゆかりの場所までを年代順に整理します。
- モデルは1904年初夏ごろ夏目家に来た黒猫で、名前はなかったとされる。
- 作中の吾輩は黒猫ではなく、淡灰色に黒い斑のある猫として語られる。
- 猫は1908年9月13日に死に、漱石は死亡通知と墓標の句を残した。
『吾輩は猫である』の猫のモデルは夏目家の黒猫
『吾輩は猫である』の猫のモデルは、夏目漱石が37歳のころ、東京・千駄木の借家に入り込んで住み着いた野良の黒猫です。
猫には名前が付けられなかったとされ、この「名のない猫」が、名前のない語り手「吾輩」の出発点になりました。
ただし、作中の吾輩はモデルの猫をそのまま写したわけではなく、毛色や性格には違いがあります。
| 比べる点 | 実在のモデルの猫 | 作中の「吾輩」 |
|---|---|---|
| 毛色 | 黒猫 | 黄を含む淡灰色に漆のような黒い斑 |
| 名前 | 付けられなかったとされる | 「名前はまだ無い」と自ら語る |
| 家に来た経緯 | 1904年初夏ごろ、千駄木の家に入り込み住み着く | 生まれてすぐ捨てられ、苦沙弥先生の家に入り込む |
| 飼い主 | 夏目漱石と家族 | 中学の英語教師・珍野苦沙弥(漱石自身がモデルとされる) |
| 最期 | 1908年9月13日、物置のかまどの上で死ぬ | 最終話で客の残したビールに酔い、水甕に落ちて死ぬ |
モデルの猫から作品が受け継いだのは、見た目ではなく「名前のない猫が家に居着いた」という状況です。毛色の違いに気づくと、吾輩が漱石の創作した語り手であることがよく分かります。
モデルの猫が夏目家に来たのはいつ?
モデルの猫が夏目家に来たのは1904年(明治37年)の初夏ごろで、当時の漱石は37歳でした。
家は東京市本郷区駒込千駄木町の借家で、現在の住所でいえば文京区向丘2丁目にあたります。
入り込んできた黒い子猫はそのまま家に居着き、夏目家の猫になりました。
この千駄木の家は、のちに愛知県犬山市の博物館明治村へ移築され、「森鷗外・夏目漱石住宅」として公開されています。
名前のとおり、漱石より前に森鷗外も住んだ家で、二人の文豪が時期を違えて暮らした建物です。
黒猫が住み着いたのも、第一話から最終話までが書かれたのも、この千駄木の家でした。
猫が文学の語り手になるまでには長い前史があり、それ以前の日本の文学では、猫は妖しい存在として描かれることも多くありました。
年を経た猫が化ける話の系譜は猫又とは|化け猫との違いは尾の数と年齢で整理しています。
作品はどう生まれた?読み切りから11回の連載へ
『吾輩は猫である』は、もともと一回きりの読み切りとして書かれ、好評を受けて全11回の連載に広がった作品です。
猫が来た年の暮れ、1904年12月に高浜虚子らの文章会「山会」で第一話が朗読され、評判を得ました。
虚子が漱石の了解を得て手を入れ、1905年1月の『ホトトギス』に掲載されたのが発表の始まりです。
山会は、虚子らが書いた文章を持ち寄り、声に出して読み合った会でした。
第一話を誰が朗読したかについては、寒川鼠骨とする漱石自身の証言があり、寺田寅彦は第二回以降を虚子が読んだと書き残しています。
作品が「声に出して読まれる文章」として生まれたことは、吾輩の饒舌な語り口にも表れています。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1904年初夏ごろ | 野良の黒猫が千駄木の夏目家に住み着く |
| 1904年12月 | 文章会「山会」で第一話が朗読される |
| 1905年1月 | 『ホトトギス』に第一話を発表 |
| 1905年10月6日 | 単行本の上編を大倉書店・服部書店から刊行 |
| 1906年8月 | 『ホトトギス』での連載が第11回で完結 |
| 1906年11月4日 | 中編を刊行 |
| 1907年5月19日 | 下編を刊行し、単行本が完結 |
| 1908年9月13日 | モデルの猫が死ぬ。漱石が死亡通知を出す |
| 1909年1月〜3月 | 猫の最期を書いた「猫の墓」を含む『永日小品』を発表 |
『ホトトギス』での掲載は1905年1月から1906年8月までで、掲載月は飛び飛びの全11回です。
単行本は上・中・下の三冊に分けて約1年半かけて刊行され、連載の完結より前に上編が書店に並びました。
実在の猫は、作品の完結を見届けたあとも夏目家で2年ほど暮らしたことになります。
名前を持たないまま家族になった一匹の黒猫が、日本の近代文学を代表する語り手になりました。黒猫を静かに身近に置くアニマルデザインはNYXARIA公式ストアで紹介しています。
モデルは黒猫なのに、作中の吾輩は黒くない
モデルの猫は黒猫ですが、作中の吾輩は自分を黒猫とは語っていません。
吾輩は自分の毛並みを、「波斯(ペルシャ)産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」と誇らしげに説明しています。
黄みを帯びた灰色の地に黒い斑がある姿で、現代の言い方なら縞や斑の入った猫に近い描写です。
この違いから、作品の吾輩は実在の猫の写生ではなく、人間社会を外から眺めるために作られた語り手だと読めます。
「黒猫だから吾輩のモデル」と紹介される場面は多いものの、作中の毛色まで黒だと説明するのは誤りです。
猫の毛色の呼び名そのものの成り立ちは、猫の毛色の呼び名|見た目より柄の出方で分けたで詳しく読めます。
黒猫は日本でも欧米でも、時代によって吉兆にも凶兆にもなってきた動物です。
その揺れ幅は黒猫は幸運か不吉か|国による違いと反転した理由にまとめています。
漱石の家の黒猫は、そうした象徴とは関係なく、ただ居着いた一匹として作品の種になりました。
漱石の猫に名前はあった?「名前はまだ無い」の意味
漱石の家の猫には名前が付けられなかったとされ、作品冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」はこの事実と響き合っています。
吾輩は最後まで名前を与えられないまま物語を終えます。
名前のなさは、吾輩が誰の所有物でもない視点から人間を観察する立場を支えています。
冒頭の吾輩は、自分がどこで生まれたのかも分からず、薄暗いところで泣いていた記憶と、そこで初めて人間(書生)を見たことを語ります。
生まれも名前も持たない猫という設定は、千駄木の家にふらりと現れた実在の黒猫の境遇とよく重なります。
漱石が猫の素性を細かく作り込まず、「どこから来たか分からない猫」のまま語らせた点に、モデルの猫の影を見ることができます。
名前がないことは、愛情がなかったことを意味しません。
漱石が猫の死に際して死亡通知を出し、墓を立てたことからも、家族の一員として扱われていたことがうかがえます。
猫に名前を付ける文化そのものの移り変わりは、猫の和風の名前|由来より先に呼ぶ音で決めるで扱っています。
モデルの猫の最期と「猫の死亡通知」
モデルの猫は1908年(明治41年)9月13日、物置のかまどの上で死んでいるのが見つかりました。
漱石は親しい人々に、人の訃報と同じかしこまった形式の死亡通知を送り、猫の死を知らせています。
この死亡通知は岩波書店版『漱石全集』の書簡集にも収められています。
猫は書斎の裏の桜の木の下に葬られ、漱石は墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」という句を書き添えました。
9月13日は夏目家で「猫の命日」とされ、猫の最期は随筆「猫の墓」にも書かれています。
「猫の墓」は1909年1月から3月にかけて発表された小品集『永日小品』に収められ、青空文庫で読むことができます。
作中の吾輩は、1906年8月の最終回で客の残したビールに酔い、水甕に落ちて死んでいます。
物語の猫が先に死に、その2年後に現実の猫が死んだことになります。
作品の結末と実在の猫の最期を混同しないことが、モデルの話を正確に伝えるうえで大切です。
墓は、その後一家が暮らした早稲田南町の家(漱石山房)の跡地に「猫塚」として残っています。
現在の猫塚は戦災で焼けたあと、残った部材から復元されたものです。
跡地には2017年9月24日、新宿区立漱石山房記念館が開館しました。
漱石の猫のモデルでよくある誤解
漱石の猫のモデルについては、作品の内容と実在の猫の事実が混ざって伝わることがよくあります。
人に話したり文章に書いたりする前に、次の表で事実と照らし合わせておくと安心です。
| よくある言い方 | 確認できる事実 |
|---|---|
| 作中の吾輩も黒猫だった | 作中の吾輩は、黄を含む淡灰色に黒い斑が入った姿として語られる |
| 猫の名前は「吾輩」だった | 「吾輩」は一人称で、実在の猫にも作中の猫にも名前はない |
| 猫が死んだので作品が終わった | 連載の完結は1906年8月、実在の猫の死は1908年9月13日 |
| はじめから長編として構想された | 第一話は読み切りとして書かれ、好評を受けて全11回に広がった |
| 今の猫塚は当時の墓そのもの | 戦災で焼けたあと、残った部材から復元されたもの |
| 猫の墓は千駄木の家にある | 猫が死んだのはその後一家が移った早稲田南町の家で、猫塚もその跡地にある |
とくに混同されやすいのが、物語の結末と実在の猫の最期です。
吾輩はビールに酔って水甕に落ちる、という最期は漱石の創作で、実在の猫は物置のかまどの上で静かに死んでいました。
二つの「猫の死」を分けて語ることが、作品にも実在の猫にも誠実な伝え方です。
漱石の猫ゆかりの場所をたどる手順
漱石の猫ゆかりの場所は、作品を読んでから旧居、墓、移築住宅の順にたどると、猫の一生と作品の時間が重なって見えてきます。
施設の開館日や時間は変わることがあるため、訪問前に各施設の案内で確認してください(2026年10月時点の情報は各施設の公式発表に従います)。
- 第一話を読む:青空文庫で冒頭から読み、吾輩が自分の毛色をどう語るかに注目します。
- 「猫の墓」を読む:『永日小品』に収められた随筆で、実在の猫の最期を漱石自身の文章で確かめます。
- 漱石山房記念館と猫塚を訪ねる:東京都新宿区早稲田南町。猫が葬られた家の跡地に建つ記念館です。
- 千駄木の旧居跡を歩く:文京区向丘2丁目。猫が住み着き、作品が書かれた家のあった場所です。
- 博物館明治村で住宅を見る:愛知県犬山市。移築された「森鷗外・夏目漱石住宅」で、作品の舞台の間取りを体感します。
『吾輩は猫である』のほかにも、日本の近代文学には猫が印象的に登場する作品が数多くあります。
猫が語り手か脇役かで作品を読み分ける視点は猫が出てくる日本の文学|語り手か脇役かで読むで紹介しています。
漱石と同時代の俳句に登場する猫は、猫の俳句|有名句は季語で読み方が変わるで読めます。
よくある質問
『吾輩は猫である』の猫にモデルはいますか?
います。1904年初夏ごろ、千駄木の夏目家に入り込んで住み着いた野良の黒猫がモデルとされています。漱石はこの猫が来た年の暮れに第一話を書き、1905年1月に『ホトトギス』で発表しました。
漱石の家の猫に名前はありましたか?
名前は付けられなかったとされています。作品冒頭の「名前はまだ無い」という一文は、この名のない猫と響き合っています。作中の吾輩も、最後まで名前を持たないまま物語を終えます。
作中の吾輩も黒猫なのですか?
作中の吾輩は黒猫として描かれていません。吾輩は自分の毛並みを、黄を含む淡灰色に漆のような黒い斑が入った姿だと説明しています。モデルが黒猫であることと、作中の毛色は分けて考える必要があります。
漱石の猫はいつ死にましたか?
1908年9月13日に、物置のかまどの上で死んでいるのが見つかりました。漱石は親しい人に死亡通知を送り、書斎の裏の桜の木の下に墓を立てました。9月13日は夏目家で猫の命日とされています。
『吾輩は猫である』はいつ発表されましたか?
1905年1月に雑誌『ホトトギス』で第一話が発表され、1906年8月まで全11回連載されました。単行本は大倉書店・服部書店から、1905年10月に上編、1906年11月に中編、1907年5月に下編が刊行されています。
漱石の猫のお墓はどこにありますか?
東京都新宿区早稲田南町の漱石山房跡地に「猫塚」があります。現在の猫塚は戦災で焼けたあとに残った部材から復元されたもので、跡地には2017年に新宿区立漱石山房記念館が開館しています。
まとめ
『吾輩は猫である』のモデルは、1904年初夏ごろ千駄木の夏目家に住み着いた名前のない黒猫です。
作品はこの猫を出発点にしながら、毛色も境遇も異なる語り手「吾輩」を作り上げました。
- モデル:1904年初夏ごろ夏目家に来た野良の黒猫。名前は付けられなかったとされる
- 発表:1904年12月に山会で朗読、1905年1月『ホトトギス』に掲載、1906年8月まで全11回
- 作中の毛色:黒ではなく、黄を含む淡灰色に黒い斑
- 最期:1908年9月13日に死去。死亡通知と墓標の句を残す
- ゆかりの場所:漱石山房記念館と猫塚、千駄木の旧居跡、明治村の移築住宅
参照した一次・公式資料
- 青空文庫「吾輩は猫である」図書カード(初出:『ホトトギス』1905年1月〜1906年8月)(2026年10月確認)
- 青空文庫「永日小品」図書カード(「猫の墓」所収)(2026年10月確認)
- 青空文庫「作家別作品リスト:夏目漱石」(2026年10月確認)
本記事は2026年10月時点で確認できた資料に基づいています。モデルの猫が夏目家に来た時期や名前がなかったことは、家族の回想などに基づく伝えで、細部には資料による違いがあります。猫の死亡通知の全文は岩波書店版『漱石全集』の書簡集で確認できます。ゆかりの施設の開館日・時間は各施設の公式案内で確認してください。

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