結論から。猫が日本に来た時期は、定説では奈良時代ころ、文字の記録では884年、遺跡の骨ではそれより古い可能性があります。
「経典を鼠から守るために大陸から渡った」という説明が長く定説でしたが、弥生時代の遺跡から猫とみられる骨が報告され、定説は揺れています。
確かなのは、平安初期の天皇の日記に唐から来た黒猫が記され、その後の物語で猫が宮中の宝として扱われたことです。
以下、骨・記録・物語・絵という資料の種類ごとに、分かっていることと分かっていないことを分けて整理します。
結論:定説と記録と骨は、それぞれ違う年代を指す
「猫はいつ日本に来たか」への答えは、資料の種類で変わります。
辞典の定説、文字の記録、遺跡の骨。この3つは、それぞれ違う年代を指しています。
| 資料 | 指す年代 | 確かさ |
|---|---|---|
| 辞典の定説 | 奈良時代ころ(8世紀) | 「とされる」の範囲。直接の証拠は少ない |
| 文字の記録(『寛平御記』) | 884年に唐から献上、889年に記述 | 高い。日付と猫の特徴が書かれている |
| 遺跡の骨(壱岐・カラカミ遺跡) | 弥生時代(約2000年前) | 報告はあるが、定説にはなっていない |
| 古墳の須恵器の足跡(姫路・見野古墳群) | 6〜7世紀 | 猫の足跡とされるが、飼育の証拠かは別 |
| 物語(『枕草子』『源氏物語』) | 10〜11世紀 | 猫が宮中にいたことは確か。扱いが分かる |
| 江戸の記録・絵 | 17〜19世紀 | 多い。町の猫の暮らしが分かる |
「日本に来た」と「飼われていた」と「記録された」は別の出来事。
骨は「いた」証拠、記録は「飼われた」証拠、物語は「どう見られたか」の証拠です。
定説:奈良時代ころ、経典とともに
長く語られてきた定説は、「奈良時代ころ、仏教の経典を鼠の害から守るため、船に猫を乗せて大陸から渡ってきた」というものです。
辞典の多くはこの説を採り、「とされる」「伝えられている」という言い方で書いています。
この説の根拠は、直接の記録ではなく、後の時代の伝承と、経典・猫・鼠の結びつきの自然さです。
奈良時代の文書に猫の渡来を記したものは知られておらず、「ころ」が付くのはそのためです。
定説が「定説」である理由
- 奈良時代に大陸との往来が盛んで、物や動物が入る経路があった
- 経典は紙で、鼠の害が現実の問題だった
- 平安初期には確かに猫の記録があり、それより前に来ていたことは確か
- 大陸の猫が「唐猫」と呼ばれ、珍重された記録がある
- それ以前の猫の記録がない(なかったのか、記録されなかったのかは別)
定説の弱いところ
定説の弱さは、「記録がないこと」を「いなかったこと」と読んでいる点です。
記録は、記録する人(貴族や僧)の周りの猫しか語りません。庶民の猫、港の猫、船の猫は記録に残りません。
そこに、遺跡の骨が入ってきました。
骨は、記録する人がいなくても残ります。
記録:884年の献上と、889年の日記
文字で確かめられる最も古い猫の記録は、宇多天皇の日記『寛平御記』です。
889年(寛平元年)の記述に、884年(元慶8年)に唐から光孝天皇に献上された黒猫が、宇多天皇に譲られたことが書かれています。
| 項目 | 『寛平御記』の記述から分かること |
|---|---|
| 時期 | 884年に献上、889年に記述 |
| 経路 | 唐から。大陸の猫であること |
| 猫の特徴 | 黒く、毛が艶やか。他の猫より優れているという記述 |
| 飼い方 | 天皇自身が世話をし、食事を与えている |
| 役割 | 鼠を捕ることに触れつつ、愛玩の対象として記述 |
| 意味 | 猫が「贈り物」として価値を持っていた |
この記録が重要な理由
『寛平御記』の記述は、日付・経路・特徴・飼い方が揃った、猫についての最古のまとまった記録です。
「いつ来たか」の答えではありませんが、「9世紀には確かに宮中で飼われ、愛されていた」ことの証拠になります。
また、天皇が猫の毛色や動きを細かく書き残したこと自体が、猫が珍しく、特別だったことを示します。
どこにでもいる動物なら、日記に書かれません。
記録を読むときの注意
日記や記録は、書いた人の周りの猫しか語りません。
天皇の日記に猫が書かれたのは、猫が珍しく、天皇の周りにいたからで、同じ時代の庶民の暮らしに猫がいたかどうかは、この記録からは分かりません。
「最古の記録」は「最初の猫」ではなく、「最初に書き残された猫」です。
この区別を持って読むと、記録と骨が違う年代を指すことに矛盾はなくなります。
「唐猫」という言葉
平安の文献で、猫は「唐猫」と呼ばれることがあります。
唐(大陸)から来た猫、という意味で、在来の猫と区別する言葉です。
この言葉があること自体、「唐から来た猫」と「それ以外の猫」がいた可能性を示します。
それ以外の猫がどこから来たかは、記録からは分かりません。猫の語源については猫の語源|「ねこ」の説はどれも確定しないで扱っています。
骨:弥生時代の遺跡からの報告
定説を揺らしたのが、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡です。
弥生時代の層から出土した骨が、イエネコのものとみられると2011年に報告されました。
骨の発見は「その時代に猫がいた」ことを示す。
「飼われていた」「日本中にいた」「今の猫の祖先である」は、それぞれ別の問いで、骨だけでは答えられません。
報告の位置づけ
- 壱岐は大陸との往来の要所で、弥生時代から交流があった
- 骨がイエネコかヤマネコかの区別は、形と大きさで判断される
- 1か所の発見で「弥生時代に猫がいた」と一般化はできない
- 船に乗っていた猫が港に降りた、という可能性も考えられる
- 定説(奈良時代)を否定するのではなく、「もっと前にもいた可能性」を示す
- 今後の分析(DNAなど)で位置づけが変わりうる
骨から分かること、分からないこと
- 分かる:その層の年代に、その場所に猫がいたこと
- 分かる:イエネコかヤマネコかの、形からの推定
- 分からない:飼われていたか、船から降りただけか
- 分からない:その猫に子孫が続いたか
- 分からない:他の地域にも猫がいたか
- 今後分かる可能性:DNAによる系統。どの地域の猫に近いか
古墳の足跡
もうひとつ、兵庫県姫路市の見野古墳群から出た須恵器に、猫のものとみられる足跡が残っていることが報告されています。
6〜7世紀のもので、焼く前の粘土の上を猫が歩いた、と考えられています。
これも「猫がいた」証拠であり、「飼われていた」証拠ではありません。
ただ、須恵器を作る工房の近くに猫がいた、という状況は、人の暮らしのそばに猫がいたことを示唆します。
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物語:宮中の猫は「宝」だった
平安中期の物語には、猫が具体的に登場します。
『枕草子』と『源氏物語』の猫は、どちらも宮中の猫で、宝のように扱われています。
| 作品 | 猫の登場 | 分かること |
|---|---|---|
| 『枕草子』 | 一条天皇の猫「命婦のおとど」。位を授けられ、乳母までいる | 猫が人に近い扱いを受けた |
| 『源氏物語』若菜 | 女三宮の唐猫。猫が御簾を引き上げ、姿が見えてしまう | 猫が物語を動かす道具になる |
| 『宇津保物語』ほか | 猫の記述が散見 | 猫が珍しくはなくなりつつある |
| 『更級日記』 | 拾った猫が、亡くなった人の生まれ変わりと語られる | 猫と魂の結びつきの早い例 |
| 絵巻 | 猫が描かれるが、多くは綱でつながれている | 放し飼いではなかった |
| 説話集 | 猫が鼠を捕る話、化ける話 | 役割と畏れが同居する |
つながれた猫
平安から中世の絵巻に描かれる猫は、多くが綱でつながれています。
逃げないように、盗まれないように。猫が貴重で、放し飼いにできない存在だったことを示します。
この「つながれた猫」が「町の猫」になるのが、江戸時代です。
文学の中の猫は猫が出てくる日本の文学で扱っています。
江戸:町の猫と、猫の絵
江戸時代に入ると、猫の記録は急に増えます。
慶長7年(1602年)、京都で猫をつないで飼うことをやめ放し飼いにさせる触れが出されたことが、公家の日記に記されているとされます。
江戸の猫が変えたこと
- 放し飼い。鼠を捕らせるため、猫は町を歩くようになった。
- 増えた猫。放し飼いで猫が増え、貴重品ではなくなった。
- 絵に描かれる猫。浮世絵に猫が頻繁に登場する。
- 招き猫。商売と結びついた猫の像が広まる。
- 化け猫の話。身近になった分、畏れの物語も増える。
- 猫の呼び名。毛色で呼び分ける言葉が定着する。
江戸の猫は、宮中の宝から、町の暮らしの一部になりました。
浮世絵の猫は歌川国芳の猫の浮世絵の見方、招き猫は招き猫の由来と色の意味、化け猫は化け猫の由来で扱っています。
時代ごとの「猫と人の距離」
| 時代 | 猫の立場 | 人との距離 |
|---|---|---|
| 弥生〜古墳 | いた痕跡はあるが、記録なし | 不明。港や工房のそばにいた可能性 |
| 奈良 | 渡来したとされる | 寺と経典の周り(伝承) |
| 平安 | 宮中の宝。唐猫と呼ばれる | つながれ、貴族に愛玩される |
| 鎌倉〜室町 | 絵巻や説話に登場 | 寺や屋敷。化ける話も出る |
| 江戸 | 町の猫。放し飼い | 鼠を捕り、絵に描かれ、招き猫になる |
| 現代 | 室内で飼われる家族 | 最も近く、最も管理される |
現代の猫好きが、この歴史をどう読むか
猫の歴史を読むと、猫が「宝」だった時代と「町の猫」になった時代があり、今はその先にいることが分かります。
つながれた猫、放された猫、そして今の室内の猫。猫と人の距離は、時代ごとに変わってきました。
定説と未確定を分けて読む姿勢は、猫の歴史に限らず、猫についての情報全般に役立ちます。
「とされる」と「記録がある」の違いを見分ける。それが、猫好きが歴史を読むときの基本です。原典を確かめたいときは、国立国会図書館デジタルコレクションで古典籍や辞典類の一部が公開されています。
よくある質問
迷ったら「定説は奈良時代ころ・記録は884年・骨はそれより古い可能性」。
この3つを分けて覚えると、猫の歴史は整理できます。
結局、猫はいつ日本に来たのですか?
ひとつの年代では答えられません。辞典の定説は奈良時代ころ、文字で確かめられる最古の記録は884年の献上(889年の『寛平御記』)、遺跡の骨は弥生時代のものが報告されています。「来た」「飼われた」「記録された」が別の出来事で、それぞれ違う年代を指す、と理解するのが正確です。
弥生時代の骨が見つかったなら、定説は間違いですか?
間違いとは言い切れません。1か所の発見は「その時代、その場所に猫がいた」ことを示しますが、「日本中で飼われていた」ことは示しません。壱岐は大陸との往来の要所で、船の猫が降りた可能性もあります。定説を否定するのではなく、「もっと前にもいた可能性」を加える発見と読むのが妥当です。
『寛平御記』はどこで読めますか?
『寛平御記』は逸文(他の書物に引用されて残った部分)として伝わり、古代の天皇の日記を集めた研究書などに収録されています。国立国会図書館のデジタルコレクションでは、図書館送信サービスの対象として閲覧できる資料があります。辞典類の「ネコ」の項でも、この記述が引用されています。
平安時代の猫は放し飼いではなかったのですか?
絵巻に描かれる猫の多くは綱でつながれており、貴重品として管理されていたと考えられます。放し飼いが広まるのは江戸時代で、慶長7年(1602年)に京都で放し飼いにさせる触れが出されたことが公家の日記に記されているとされます。それ以降、猫は町の暮らしの一部になっていきます。
今の日本の猫は、平安時代の唐猫の子孫ですか?
分かりません。日本の猫の祖先がどこから何回入ってきたかは、骨やDNAの研究が進んでいる段階で、定説はありません。唐猫が一つの経路であったことは記録から確かですが、それだけとは限りません。「一回の渡来」より「複数の経路と時期」と考えるほうが、現在の資料に合っています。
まとめ
猫が日本に来た時期を読むときの基準です。
- 定説:奈良時代ころ、経典とともに大陸から。直接の記録はなく「とされる」
- 記録:884年に唐から献上、889年の『寛平御記』に黒猫の記述
- 骨:壱岐・カラカミ遺跡から弥生時代の猫とみられる骨。定説を揺らすが未確定
- 物語:『枕草子』『源氏物語』の猫は宮中の宝。多くはつながれていた
- 江戸:放し飼いの触れ、浮世絵、招き猫。猫は町の暮らしへ
猫の歴史は、ひとつの年代では語れません。
骨・記録・物語・絵を分けて読み、定説と未確定を分ける。その読み方が、猫と人の長い距離の変化を見せてくれます。
参照した一次・公式資料
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「日本人が犬や猫を飼いはじめた時期を知りたい」(埼玉県立久喜図書館、管理番号 埼久-2025-111)(2026年9月17日確認)
- 国立国会図書館デジタルコレクション(2026年9月17日確認)
- 文化庁「国指定文化財等データベース」(2026年9月17日確認)
遺跡の出土品の分析は研究の途上にあり、位置づけが変わることがあります。本記事は「定説」「記録」「報告」を区別して整理したもので、年代の断定を目的としていません。

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